大正レトロ

大正11年(1922年)
洋風の女性に成ってきました。色使いは余り面白くないです。
(世相)「週刊朝日」「サンデー毎日」創刊 
オールバック大流行 「篭の鳥」流行る。
東京大空襲の日と罹災証明書

罹災証明申請書 
当時の神田区長 四方謙二氏(千代田区長)宛に祖父が書いた罹災申請書です。 

罹災証明書 
この証明を貰って、尚かつ切符のような物を貰わないと食料はおろか、衣服もお金では買えない悲惨な時代でした。またこの証明書が無いと鉄道の切符も買う事が出来ませんでした。当然我が家も庭に油脂焼夷弾が落ちて全焼しました。幸い我が家では死者は出ていませんが一夜乞食に成って仕舞い、お茶の水の聖橋の下に逃げ込んで避難したそうです。飽食の現代、何でも手に入る現代、平和呆けの国民、特に役人 3月9日の深夜から10日にかけて、この有りがたい現在に、この上何が不満なのかチョット思い起こしてみるべきだと思います。若くしてお国の為に無念で亡くなった方々の英霊に感謝し、現在の若者の自殺、命を粗末にする人に警鐘を鳴らしたいと思います。私が幾ら言っても無力ですが若者にもっとこの日の歴史を知って欲しいです。我が家に焼夷弾が落ちたのも丁度ブログ記事を書いているこの位の時間に・・・

3月10日の空襲

超低空でB29が飛来して来て父の話では銀色の大きな機体が間近に見えたそうです。
P51(ノースアメリカン)にも大空襲の大分前に父が学徒動員で東雲の日東紡績の工場で機銃照射を浴びたそうです。パイロットのサングラス、マフラーまで見える程の低空で撃たれて腰を抜かして仕舞ったと言っています。当てる気は無かったようですが、アメリカの余裕には到底勝てる筈が無いと当時、中学生の父でも感じたそうです。竹槍で飛行機を落とす練習はとてもバカらしかったと思っていたそうですが、そんな事を言えば非国民で大変な世の中でした。銃は三八式歩兵銃での訓練は当時の中学生の体格より大きくとんでも無く重い銃だったと話しています。その後の教練では銃が不足して木銃での軍事訓練だったそうです。

3月10日の大空襲は、日本の軍需産業が中小企業が生産拠点となっているために市街地と市民そのものを攻撃対象とし、日本軍には低高度での有効な対空火器が存在しないことに注目した故に行なわれた低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。

1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。

投下された爆弾の種類は油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などであり、投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。日本が中国戦線で数年に渡って繰り広げてきた重慶爆撃の全投下量は1万8000トンであり、その10%に相当する量を一夜にして投下したのであるから、この空襲の規模の大きさを窺い知ることが出来る。

当夜は低気圧の通過に伴って強風がふいており、この風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。

* 警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉できず空襲警報の発令を極端に遅れた(発令されたのは初弾投下後の0時15分)。
* 「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入したことで、爆撃機編隊を通常よりも低空で侵入させ、そのまま投弾させたため、着弾範囲が以前より精密だった(逆に火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の予定地域ではない場所で投下した記録もある。そのため、火災範囲がさらに広がった箇所もある)
* 強風が火勢を煽り、延焼を広げた
* 調布・入間・成増・所沢・厚木・柏・松戸等、東京近郊の飛行場に配備されていた陸海軍戦闘機隊の発進を妨げたため、ただでさえ絶望的に少ない迎撃のチャンスを奪った(通常は戦闘機が到達できない高度から爆撃を行っていたが、この日は違った)

これら複数の要因が重なり被害が拡大。8万人以上(10万人ともいわれる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。

このとき使用された焼夷弾は日本家屋を標的にしたものであり、ドイツがロンドンを空襲した際に不発弾として回収されたものを参考に開発された。当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾は瞬発または0.02〜0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。また爆撃の方法も左右を先に爆撃して炎の壁をつくり、その間に避難して炎に挟まれた群集を、後続の爆撃機でその炎の壁の間を爆撃して焼き殺すという戦法が採用された。

火災から逃れるために、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が大きく、炎が竜巻や滝のように流れてきて焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も少なくなかった。

3月10日は日露戦争の奉天戦の日であり、陸軍記念日となっていた。日本の戦争継続の気力をそぐ為、あえてこの記念日が選ばれたと言われている。

なお、アメリカ軍の損害は撃墜・墜落12機、撃破42機であった。

東京大空襲でお亡くなりに成られた多くの方々のご冥福をお祈り致します。
恵比寿様の広告紙

先日入手した昔の店舗用の無地広告紙です。スキャナーに紙が入り切らないので、上と下の巻物部分が切れていますが、この無地の部分にお店の広告を入れたのだと思います。無地の物は珍しいので、この絵は早速、神田神社に奉納しました。年代は海の右側に電柱が有るのと、そこに電車らしき物が描かれているので昭和初期位の物だと思います。
大正レトロ

大正10年(1921年)製 日本髪、和服で当時の女性の
服装がわかります。

(世相)銀座通りの柳を銀杏に植え替え。歩道の赤煉瓦も木煉瓦になる。
「船頭小唄」「枯れすすき」流行る。
喫茶室の電傘

そんなに珍しい傘ではありませんが、雰囲気はやはりコピーと違い良いです。
江戸文字 寄席文字 相撲文字 勘亭流(歌舞伎)

右から江戸文字、江戸文字は半纏や提灯に文字を書くので直線的な線で書かれています。これらの文字は筆を寝かせて書きます。習字では立てますが、鉛筆を持つようにします。線の太さが均一になるそうです。現在正式なこれらの文字を書ける職人は殆どいないそうです。右龍師匠に言わせる現在はどれも中途半端な字だそうです。ご紹介した文字が本物の各書体です。
昔の教科書? 最終回

これが最後の1枚の版画です。この絵には飛行機や飛行船が描かれています。明治時代にはまだ複葉機ですら出来得なかった筈です。ライト兄弟が1903年12月17日にノースカロライナ州のキティホークにて「ライトフライヤー号」によって人類で初の飛行機による有人動力飛行に成功した。それまでの飛行の試みの多くが、「ジャンプ」に毛の生えたものでしかなかったのを考えるとこの絵のような飛行機はまだ大空を優雅に飛んでいるのは不自然である。またツェッペリン式飛行船は1929年に北半球周遊を行い、336325kmを273時間27分で飛行したとされる。この際、日本の霞ヶ浦に寄港している。日本人が飛行船を目にしたのは昭和初期頃、よって今までの版画絵は明治期のものではなく、大正期後期から昭和初期と判断するのが妥当だと思います。描かれている人物も日本人ではないように見えます。
昔の教科書?

全部で3枚所有しております。あと1枚で終わりです。前回の蒸気機関車の絵は明治時代の絵のようですが、次回にご紹介する最後の絵を見て頂くと明治期では無い事が推理出来ると思います。
大正レトロ

大正9年(1920年)のポスターです。
顔つきがチョット日本人離れしています。ロゴが消え
★だけに成っています。
(世相) 菊池寛が「真珠夫人」を発行 
これによって通俗小説が流行始める。
「ゴンドラの唄」流行る。
昔の教科書?

明治〜大正期の教科書のようです。刷り物で右に綴じ代が有るのでそのように推理しています。非常に色が奇麗です。大きさはA4サイズより一回り大きいです。
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